一六六一年、ロンドン 序列をめぐって 人が死にました
一六六一年九月三十日、ロンドン塔の近くで流血の事件が起こりました。スウェーデン大使の入市式に際し、フランス大使とスペイン大使の行列が、どちらが先を行くかをめぐって衝突したのです。双方に死傷者が出ました。
事態はここで収まりません。ルイ十四世はスペイン国王フェリペ四世に対し、公式の謝罪と、以後ヨーロッパのすべての宮廷においてフランス大使の優先権を認めるという確約を要求し、これを勝ち取りました。ヴェルサイユ宮殿の鏡の間の天井には、この「勝利」が寓意として描かれています。
馬車の順番です。それだけのことで、二つの大国が戦争の一歩手前まで進みました。
現代の私たちは、この事件を前近代の愚かしさとして片づけたくなります。しかし、そう読むのは正確ではありません。この事件が本当に示しているのは、共通の基準が存在しない場所では、形式そのものが争点になるという事実です。そして、その構造は今日もまったく変わっていません。
一.プロトコールは儀礼ではなく 意思決定のインフラ
まず、前提を整理させてください。
日本語で一般に「マナー」と呼ばれる領域、すなわちエチケットは、個人と個人のあいだに働く作法です。文化によって異なり、時代によって変わります。どちらが正しいという問題ではありません。いわゆるマナーの巧拙は、あくまで個人の印象の問題にとどまります。
対して国際プロトコールは、国家と国家、機関と機関のあいだに働く規範です。その目的は「美しく見せること」ではなく、恣意性を排除し、公平性と一貫性を担保することにあります。
一六六一年の事件から百五十年余りを経た一八一五年、ウィーン会議は外交使節の席次に関する規則を定めました。さらに一九六一年の「外交関係に関するウィーン条約」は、大使の序列を信任状を捧呈した日付という、誰にも操作できない客観的基準に置きました。
国力でも、歴史の長さでもなく、日付です。これは徹底して意図的な設計です。序列を主観の外に置くことによってのみ、序列は争いの種ではなくなるからです。
企業の会議室でも、構造はまったく同じです。
- どちらが訪問し、どちらが迎えるのか
- 誰が上席に座るのか
- 契約書の署名は誰が先か
- プレスリリースに並ぶ社名の順序は
これらはすべて「誰を上位に置くか」という判断です。基準を持たない組織では、この判断が毎回その場の空気に委ねられます。空気で決まるものは、毎回リスクになります。
プロトコールとは、そのリスクをあらかじめ制度として処理しておくための仕組みなのです。いわゆるマナーが個人の印象を左右するものだとすれば、プロトコールは組織の立場そのものを左右します。両者は程度の差ではなく、次元の異なるものです。プロトコールはマナーの上級版ではありません。測る軸そのものが異なります。
見分け方は、単純です
現場で迷うのは、目の前の作法が「当たり前のマナー」なのか「決められたプロトコール」なのか、判断がつかないときです。見分け方は一つです。
気遣いとして、相手や状況に応じて形を変えてよいもの——それはマナーです。地位や順序に関わり、恣意性を排除するために明文化されているもの——それはプロトコールです。
たとえば——
- 名刺を両手で差し出す。相手への敬意の表し方であり、国や場面によって作法は変わります。これはマナーです。
- 外交使節の席次を、信任状を捧呈した日付という一律の基準で機械的に決める。誰の裁量も入りません。これはプロトコールです。
- 訪問先で靴を脱ぐかどうか。土地の慣習に従うべき、可変の作法です。これはマナーです。
- 参加国の国力や大小に関わらず、国旗の掲揚順と大きさを均等に扱う。国際儀礼として明文化された規則です。これはプロトコールです。
この違いを見誤ると、対応も変わってきます。マナー違反は、相手に「配慮に欠ける」という印象を残します。プロトコール違反は、組織や国家の立場そのものを損ないます。前者は謝罪で回復できますが、後者は前提そのものを崩しかねません。エグゼクティブがまず身につけるべきは、この二つを瞬時に見分ける力です。
二.形式の合意なくして 実質の交渉は始らない
もう一つ、より現代的な例を挙げます。
一九六八年五月、ベトナム戦争終結に向けた和平会談がパリで始まりました。ところが十一月、南ベトナム政府と南ベトナム解放民族戦線が加わったところで、交渉は完全に止まります。
止めたのは、テーブルの形状でした。
正方形か、長方形か、楕円か。二十案以上が検討され、十週間が費やされました。決着したのは一九六九年一月です。直径四・七五メートルの円卓を置き、その両脇に書記用の長方形テーブルを配置する。旗もネームプレートも一切置かない。発言順は交互とする——この案で全当事者が合意し、一月十八日、ようやく初の四者会合が開かれました。ニクソン大統領の就任式まで、あと一週間という時点でした。
十週間を「無駄」と呼ぶのは簡単です。しかし、当事者たちにとってテーブルの形は無駄ではありませんでした。
四角いテーブルは四つの当事者を意味します。二つの辺しかないテーブルは二つの当事者を意味します。北ベトナムは南ベトナム政府を正統な政府と認めず、南ベトナム政府は解放民族戦線を当事者と認めない。つまりテーブルの形は「誰がこの交渉の当事者なのか」という、最も重い政治的争点そのものだったのです。
旗もネームプレートも置かない円卓という解は、その問いに答えを出さないまま交渉を開始するための、唯一の設計でした。
形式は実質の外側にあるのではありません。形式は、実質を可能にする条件です。
この構造は、国際的なM&A、合弁事業の立ち上げ、初回の表敬訪問において、そのまま再現されます。誰が先に相手先を訪ねるのか。誰が玄関で出迎えるのか。共同記者会見で誰が先に話すのか。これらを事前に設計できる人間が自社側にいるかどうかで、交渉のスタートラインの位置が変わります。グローバルな交渉の場において、この設計力を欠いた組織は、本題に入る前にすでに一歩後退しているのです。
三.エグゼクティブ・プレゼンスは 才能ではなく規範の理解
「そうは言っても、それは儀典担当者の仕事ではないか」——そう思われるかもしれません。
ここで、経営者自身に関わる研究をご紹介します。
シルヴィア・アン・ヒューレット博士がCenter for Talent Innovationで実施した調査は、二百六十八名のシニアエグゼクティブに対し、「エグゼクティブ・プレゼンス」を構成する要素の比重を問いました。結果は次のとおりです。
- Gravitas(重み・胆力)— 六七%
- Communication(伝達)— 二八%
- Appearance(外見)— 五%
しばしばこの数字は「外見はたった五%にすぎない」という文脈で引用されます。しかし、ここで誤解しないでいただきたいことがあります。五%は「軽視してよい」という意味ではありません。
ヒューレット博士自身、外見の役割を「関門」として位置づけています。身だしなみが整っていなければ、そもそもgravitasやcommunicationを相手に届ける手前で、評価の土俵に上がれない。つまり外見とは、通過して初めて意味を持つ必要条件であり、そこで完結する目的ではありません。ICPAがエグゼクティブ・プレゼンスの指導において外見も扱うのは、まさにこの理由からです。
しかし、関門を通過しただけでは足りません。gravitasが占める六七%——危機における冷静さ、決断力、誠実さ、感情の制御——が伴わなければ、エグゼクティブ・プレゼンスは完成しないのです。外見を整えることは、入り口に立つための条件にすぎません。そこから先、部屋の中で実際に信頼を勝ち取るのは、gravitasです。
ここでプロトコールの教養が効いてきます。
規範を知っている人間だけが、予期せぬ事態のなかで落ち着いていられるからです。
序列を知らなければ、席に着く瞬間に迷いが生じます。乾杯の作法を知らなければ、グラスを持つ手が止まります。相手国の国旗の掲揚順を知らなければ、会場に入った瞬間に不安が走ります。その迷い、その停止、その不安は、必ず相手に伝わります。
逆に、規範を身体に入れている人間は、何が起きても動じません。基準を持っているからです。gravitasとは、生まれつきの威厳ではなく、判断の基準を内側に持っていることから生まれる静けさです。
型を知る者だけが、型から自由になれます。
四.なぜ それが「いま」なのか
理由は三つあります。
第一に、経済の重心が非西欧圏へ移動しているからです。
かつてのグローバルビジネスは、西欧的なマナーをひととおり身につければ足りるとされていました。しかし今日、日本のエグゼクティブが向き合う相手は中東であり、東南アジアであり、アフリカであり、中南米です。それぞれに固有の序列観と儀礼があります。個別のエチケットを網羅的に学ぶという方法論は、もはや現実的ではありません。
第二に、だからこそプロトコールなのです。
マナーと呼ばれる領域は文化ごとに異なりますが、プロトコールは異なる文化のあいだで公平を担保するために設計された枠組みです。文化差を暗記するのではなく、文化差が存在することを前提に成り立つ共通言語を身につける。これが唯一、拡張可能な方法です。
第三に、日本のエグゼクティブは二重の立場に置かれているからです。
海外へ赴くゲストであると同時に、日本へ迎えるホストでもある。そして日本には、独自の序列と儀礼の伝統が千数百年にわたって蓄積されています。この日本固有の体系を、国際プロトコールの枠組みへ正確に接続できる人材が、いま決定的に不足しています。
これは弱点ではなく、機会です。非西欧圏の成熟した儀礼の伝統を持ちながら、国際プロトコールの体系を理解している——その組み合わせを備えた経営者は、グローバルな舞台において稀有な存在となります。グローバル・エグゼクティブの条件は、いま静かに書き換えられつつあります。
結語 ―― 突き詰めれば 「思いやり」に戻る
プロトコールは装飾ではありません。
それは経営のリスク管理であり、敬意を可視化する技術であり、そして最終的には、相手を尊重するという意思を、誤解の余地なく伝えるための共通言語です。
一六六一年のロンドンで血が流れたのは、共通の基準がなかったからでした。誰も、悪意で相手を傷つけようとしたわけではありません。ただ、自分の解釈に頼るしかなかった。基準がない場所では、善意さえも衝突の火種になります。
プロトコールが明文化されているのは、まさにこの衝突を防ぐためです。地位や順序を、誰かの気分や解釈に委ねない。委ねないことによって、誰も傷つかずに済む。突き詰めれば、プロトコールとは、思いやりを個人の裁量から切り離し、誰であっても再現できる形に落とし込んだ設計図にほかなりません。
つまり、プロトコールを深く知り、正しく実践することは、最終的には一周して、誰も傷つけない、思いやりのマナーへと戻ってくるのです。ただしそれは、その場の空気や個人の気分に左右される、偶然の思いやりではありません。基準として制度化された、再現可能な思いやりです。
だからこそ、エグゼクティブにこそこの教養が必須なのです。外見を整えることは、その入り口にすぎません。gravitasを支えることは、その途上にすぎません。最終的にエグゼクティブが体現すべきは、規則を規則として振りかざす冷たさではなく、規則を通じてその場にいる全員を守るという、静かな思いやりです。
型を知る者だけが、型から自由になれます。そして型の先にあるのは、誰も傷つけないという、もっとも人間的な到達点です。
エグゼクティブにとってプロトコールの教養が必須である理由は、突き詰めれば、この一点に尽きます。
国際プロトコールアカデミー 学院長 白羽セシリア美麗
参考文献・出典
- Château de Versailles「Spain and Versailles」(一六六一年ロンドン事件およびフェリペ四世による優先権承認について)
- Samuel Pepys『日記』一六六一年九月三十日の項
- 外交関係に関するウィーン条約(一九六一年)第十六条
- U.S. Department of State, Foreign Relations of the United States, 1964–1968(パリ和平会談の手続き交渉記録、一九六九年一月十八日初会合)
- TIME誌アーカイブ「Full Circle in Paris」(テーブル形状をめぐる十週間の交渉について)
- Sylvia Ann Hewlett, Executive Presence: The Missing Link Between Merit and Success(HarperCollins, 2014)/Center for Talent Innovation調査
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